プロフェッショナルダイバーのための潜水医学講座3

ダイビングを講習する立場にあるインストラクターは、お客様がダイビングに対して健康上の適合性があるかどうかを知らずしては、安全な講習は成し得ませんし、ダイバーとして認定する事もできません。そのためにPADIでは、お客様自ら病歴診断書へ記入していただき、Yes項目があれば医師に受診してもらい、ダイビングの適否を判定してもらうシステムを取っていますが、必ずしも潜水医学に詳しい医者に診てもらえるわけではありません。中にはわからないからとの理由でサインを拒否されたケースもあったと思います。皆さんは、どうして一般の医者でも使えるような健康診断基準がないのかと疑問に感じたことはありませんか?今回は医療の現場からその疑問にお答えします。

1. 現行のPADI病歴診断書について

よく質問されるのですが、病歴診断書に正確に答えると、医者にかかってみると結局、問題にはならないと診断される些細なことが多く、何のためにあのような質問項目があるのかといったことを訊かれます。例えばアレルギーがあるという項目で、スギ花粉症の人がそれです。ほとんどの場合は些細であっても時には重大な場合もあり、それをわかりやすく一般の人から引き出すためにはあのような質問形式が一番なのです。後述のRSTC基準をもとにPADIアメリカで作られたこの病歴診断書は、完成された問診票なのです。インストラクターの皆さんもお客さんも、詳細な潜水医学の知識がないためにその意味を理解できないので、チェック項目があればとりあえず医者に受診すべきです。例えば先ほどのスギ花粉症であれば、スギシーズン中だけ耳が抜けないベテランダイバーは、インストラクターレベルを含めて決して珍しくありません。その時期はアレルギー治療をしながら潜るとか、治療しても抜けなければ3月だけは潜らないなどのアドバイスが必要です。そして逆に耳抜き不良があるダイバーの90%がアレルギー性鼻炎を持っていることから、エントリーレベルの人には、もしかしたら講習中に耳抜き不良が起きる可能性があり、万一抜けなかった場合には一時講習をストップして治療の後に再スタートとなりうることもアドバイスできます。そのほかに、アレルギー体質であることがわかるので、日光過敏症やウエットスーツの皮膚アレルギーになることもあり得ます。このように、一つの項目は色々な可能性の情報源であり、奥深い意味があるのです。病歴診断書の各項目にどのような意味があるのかといった詳細をお知りになりたい方は、遠慮なくお問い合わせください。


2.一般の医者に病歴診断書のサインを拒否されてしまう理由。

 どのような医者でも、ダイビングが高気圧環境下の特殊なスポーツであることは知っていますが、詳細はほとんど知りません。なぜならば医学生が医師国家試験を受ける時には何科の医者になるにもかかわらず、全員が同じ様に全診療科目の試験を受け合格しなくてはならないのですが、衛生学または公衆衛生学の科目で、ごく簡単に潜水医学を学ぶだけです。過去の医師国家試験でもほとんど出題されていないようなジャンルです。学ぶのも表面的な浅い知識です。ほとんどの医者は医学生時代に学んだ潜水医学を使わぬうちに忘れてしまうでしょう。そのために病歴診断書を見せられても、わからずに困ってしまうのです。そしてダイビングを知らない医者はダイビングをやらない一般の人以上に、下手に減圧症などを学んだことがあるがゆえに大変危険なものであると勘違いしています。そして医者は責任問題が嫌いです。いつでも医療訴訟を起こされないようにと考えながら行動や発言をしている人が多いのです。病歴診断書について一般の医者は、現在ダイビングを始めても問題ない健康体であるかどうかを診断する、という意味とは受け取らず、ダイビングをしてもその人が潜水事故を起こさないと保証するものであると勘違いしています。しかし困ったことに、実際にサインをしたダイバーが(偶然に)死亡し、医療訴訟問題になったケースもあるようです。以前はダイバーをたくさん診察してダイバー達に頼られていたのに、その後一切病歴診断書へのサインを拒否している医者がいるようです。医者、ダイバーともに病歴診断書の意味を正しく理解していないのが現状です。もちろんインストラクターの皆さんから見れば、病歴診断書にサインを貰ったからといって、いかなる潜水事故をも起こさないなどと考えてはいないでしょう。どんなに健康な人でも、いつどんな偶発的事故にあうかもしれません。交通事故と同じ状況であるに、一般の医者にもダイバーにも、そして事故死したダイバーの遺族にもなかなか理解してもらえないものです。


3.医療現場から見た、ダイビング適正ラインの難しさ

潜水を全く知らない医者でも、一般的医学知識を使って診断できるような診断基準のマニュアルがあれば便利です。そうすればどこの何科の医者に受診しても、的確にダイビングの適否を診断できるわけです。ではどうして潜水医学に詳しい医者がそのようなものを作らないのかと思われるでしょうが、実は後述の様なRSTC基準というものがすでにあるにはあるのです。しかし、同じ病気でもその重症度や個人差によって、全く判定が異なることも珍しくありません。さらに、病気の重症度を定量的に数字で表せればよいのですが、数字では表現できない病気も存在します。アメリカではかなりポピュラーな病気である喘息を例に取ってみましょう。かなり昔は喘息があるとダイビングは絶対禁止とされてきました。なぜならば、喘息発作時の気管収縮や痰によって肺破裂が引き起こされ、結果として気胸やエアーエンボリズムを起こす可能性があったり、ダイビング中のドライエアーを吸う事、低水温刺激、運動負荷などによる喘息誘発因子の存在、、喘息治療薬による心臓の負荷と減圧症のリスクの上昇など、かなりの危険因子を含んでいます。しかし以前、アメリカでダイバー数千人に対して無記名アンケート調査を行ったところ、なんと20%近くのダイバーが喘息を隠してCカードを取り、今でも薬を自己調節し、体調を自己判断してダイビングを行っていることが判明、しかも年間の潜水事故のうち、喘息が原因と考えられるものがさほど多くなかったのです。潜水医学界はこのショッキングな報告に仰天したことがありました。頭ごなしに喘息はダイビング禁止としていたのに、実際に何のトラブルもなく潜っている人がかなりいたのですから、ガイドラインを見直すべきであると盛り上がりましが、ではどこでラインを引くかというところが大変問題になりました。年に1回程度の発作しかないが、起きると入院しなければ生命が危ないほどの人、いつも軽くは起きるが少量の薬で完全にコントロールできる人、運動で誘発される人とされない人など、全くとりまとめが不能なため、どのようなタイプの喘息患者でも心配がないラインを採用せざるを得ず、結果としてもちろん活動性の喘息は絶対禁忌、過去の病歴があるものについては薬を使用していない状態での呼吸機能検査が正常、薬物吸入による誘発試験にても呼吸機能検査上に喘息が誘発されていなければ相対的禁忌ということになり、RSTC基準に採用されましたが、結局はあまり進歩があったとはいえず、自己管理で潜れている人がまた、かなり禁止組に含まれてしまうことになったのです。いったいどこでラインを引くのが最善かは未だに結論がでていないのが現状です。RSTC基準も完璧に完成されたものなわけではありません。


4.全ダイビング指導団体共通のレクリエーションダイバー健康診断ガイドラインの必要性。
 
主だったダイビング指導団体の合同会議上においても、診断基準の必要性が提案されていますが、実際の医療、潜水指導現場ではなかなか現実的なものを制作するのが難しいのです。現在、ダイバーのための健康診断基準として、RSTC (Recreational Scuba Training Council)基準というものがアメリカに存在し、これが現状ではもっとも適切なダイバーのための健康診断ガイドラインであると世界中が評価し、実用化している国もたくさんあります。しかし、すでに述べたように完全なものではない上、それなのにかなりの手間が医療サイドに要求されてしまうのです。本邦においてもSSIなどではいち早く翻訳され医者向けに配布されましたが、4ページにわたるこの文章は、初めて見た医者がそれを読んで概要を理解するまでには30分以上を要し、しかも自分の専門分野以外については診断できないような専門性も含まれており、詳細すぎて煩雑な外来医療を行う一般の医者には受け入れられるものではありませんでした。最近、各ダイビング指導団体の要請を受け、DAN JAPANが翻訳したものをさらに要約し、これを現場の医師達に提示したところ、まだ膨大すぎて実用性に欠けるとして却下されてしまいました。また、ダイビング指導者側から見ると、もしもこの厳しいガイドラインに基づいてゆくと精密検査へ進む可能性が多々あり、保険がきかない可能性があるのでそれにかかる費用や時間は膨大なものになるため、エントリーレベルのダイバーが敬遠してしまう可能性が高くなります。せっかくエッセンシャルチェンジによって、より気軽にダイビングの世界に入れるよう改革してきているにもかかわらず、それに逆行する事にもつながりかねないわけです。


5.健康診断基準についての今後の展望
 
以上のことから、医療サイドから見て使いやすく、しかもダイビング指導者側から見てもお客様の大きな負担にならないようなガイドラインを作らなくてはなりません。そしてガイドラインの必要性は明らかなのです。厳しすぎず、甘すぎないもっとも適切なところでボーダーラインを引き、必要最小限の検査を行って的確な診断を下す事が出来るものが理想です。しかし、そのためには潜水医学のジャンルにおけるあらゆるデーターが不足しています。人間には個体差があるため、簡単にはデータがでません。一つの疾患について何千、何万という潜水症例データーがあって初めて結論がでるのです。そのためには世界レベルの統計が必要で、動物実験や時にはボランティアによる実験も必要でしょう。そして医療現場サイドや、ダイビング指導者側も協力をする必要があります。その例えとして、現在DANアメリカではチャンバーによる模擬潜水をダイバーのボランティアに行ってもらい、色々な潜水スケジュール後に、何時間おいて飛行機搭乗をすると減圧症が起きるのか、起きないのかを人体実験して、動物実験や机上理論からは得られない正確で貴重なデーターを集めています。また、国際DANでは、各国が共同で減圧症の潜水事故の統計をとるために、平成11年5月から減圧症傷害報告書(DIRF)の収集を始めました。これは再圧治療を行っている医療機関をメインに、減圧症患者の治療を行ったとき、患者自身と医療サイドが詳細な報告書に記入を行い、これを集めて統計学的に研究をするものです。この報告書の書式は世界共通のものであり、減圧症発症のリスクや、予防、治療に役立つものとして大変な期待が寄せられています。日本におけるダイビングコンピューターの普及率は著しく、世界一です。このため日本からの報告は世界各国から期待されています。このように地道で膨大な情報集積が基になり、より完全な健康診断基準を作る事が出来るのです。ご存じのようにPADI基準においても、潜水事故があった場合には潜水事故報告書の提出が義務付けられています。これも事故データーを集積させ、今後の事故の予防をはかる意味で大変重要なことにつながり、同時に基礎疾患の有無や潜水スケジュールなどからも潜水医学のデーターを得ることが出来ます。より完全なガイドライン作りは、医療サイドのみでは成し得ないことです。インストラクターの皆さんのご協力もお願いいたします。潜水医学の医者とダイバー全員の努力から得られるものであることを忘れないで下さい。


PJ2の追加と訂正
PJ Report Vol 2(なぜ酸素供給法を学ぶ必要性があるのか(のセンテンス2(応急手当にどのくらい酸素が有効なのか(の文中において用いられた(マスク(という用語は、正しくは(シンプルフェースマスク(のことを意味します。誤解を招く表現であったことを謹んでお詫び申し上げます。また、酸素供給の際に用いられるマスクには以下の様な種類があり、それぞれの有効性についてを追加いたします。


1、デマンド式吸気バルブとその付属フェイスマスク(写真1)、またはデマンドバルブとポケットマスク(写真2)・・・ほぼ100%の酸素吸入が可能。もちろん、少しも空気が混入しないように、顔にぴったりと押しつけて隙間が少しでもあってはいけない。もっとも推奨される。特にポケットマスクはほとんど万人の顔に合わせる事が出来るので、もっとも良い。(写真1)

2、ノンリブリーザーマスク・・・酸素をためるリザーバーバッグが付いていて、呼気がバッグに戻らないように逆止弁が付いている。70%前後の酸素濃度が吸える。よほどぴったりと隙間無くうまく顔につけることが出来れば、90%位の濃度になる事になっているが、このマスクの形状が顔にぴったり合う人はそんなにはいない。デマンドがなければこれを用いるしかないが、以下に述べる物よりもまだずっと良い。(写真3)

3、パーシャルリブリーザーマスク・・・リザーバーバッグが付いているが、逆止弁が付いていない。最高でも60%濃度でしか吸えない。酸素がないよりもましな程度。潜水事故用に用意するのは勧められない。

4、シンプルフェイスマスク・・・リザーバーバッグが付いていない最もシンプルな構造。これは35%〜60%濃度が限界。やはり潜水事故用には推奨できない。(写真4)